「そういえば、郁」

 件(くだん)の転校生・伊藤 啓太がやってきて、最初の週末。
 プログラミングを終えて会計室に帰ってきた七条は持参した資料のCD-ROMをパソコンに挿入しながら、不意に思い出したように口を開いた。

「今日、図書室で伊藤くんと出会いましたよ」

 隣のデスクで書類に目を通しながら彼の話を聞いていた西園寺は、ほぅ、と相槌を打つ。

「この学園内を探検しているのだと、言っていました」

 続けて七条は、そこであった出来事を逐一報告した。

 

 プログラムについて尋ねてきたこと、丹羽会長と出会ったこと、それから ――――

 

 七条には昔から、いわゆる“報告癖”がある。その言葉が示すとおり、日記か何かのようにその時あったことを誰かに伝える癖だ。
 彼の場合、西園寺にだけその癖は発揮される。故に、2人しか知らないことはあっても、2人の間で隠し事はない。

 しかし普段は、その殆どが会計機構の職務に関することで、いわば事務的な動作に過ぎない。他人、それも特定の人物のことについて多く喋るのは、彼としては珍しい。

 

 その様子を、好ましいと西園寺は思った。

 

 

 【 3. A secret just between us  】

 

 

 

 この学園への入学に関して負い目を感じている様子の彼は、いつも受け身だ。

 受動的といっても、もちろん自分で物事を考えられない訳ではない。むしろその卓越した頭脳は、先々のことを考えて行動するには余りある。けれどその知恵も意欲も、全ては敬愛する“郁”のためでしかない。

 

 一般的に欧米に長くいた経験のある者は、日本にずっといる者と比べてストレートに感情を表に出すことが多いと言われている。同じこの学園にいる成瀬 由紀彦など、その典型的な例だろう。
 しかし七条に関しては、それが当てはまらなかった。

 もともとそんなに感情表現が得意ではない、自称「恥ずかしがり屋さん」な彼は、既に自分の気持ちを押し殺す事に慣れすぎているのだろう。それは、西園寺が幼い頃から感じていたことだった。

 彼の幼少時に身近にいたのは、それこそ親子ほど年の離れたパソコン技師たちばかりで子供らしい遊びをあまりした記憶がないのだ、彼は言っていた。そんな彼の表情は、自分を囲む大人たちに合わせるための仮面。本当の感情をさらけ出すよりは“いい子”を演じた方が何かと都合がいい、ということを、きっと彼は早くから知ってしまったのだろう。
 つまるところの“愛想笑い” ―――― ある意味、非常に日本人的だ。

 

 けれどここまで成長した今、そんな仮面をつけるのはもう必要ないはずなのに。
 人当たりの良い態度をとりながら、しかしお世辞にも表情は豊かとは言えないのは、相変わらずで。

 言葉数は、語彙力に比例して増えていた。本来の彼の性質はそんなに寡黙な方ではないのだろう、日本に来た当時は周囲に物静かな印象を与えていたようだが、相手が英語を理解できると知った瞬間に口数が増えた辺り、単に言葉の壁に遮られていただけなのだと分かった。
 けれど日本語が巧みになっていくにつれ、今度は冗談と軽い皮肉で自分を表現をするのが常になった。言いたいことは言うものの、いつも変化球勝負。これがポーカーフェイスと相まって、更に分かり難い性格を形成していた。

 黙して語らない訳ではないし、10年近くもずっと一緒にいればきっと、西園寺のように慣れて何もかも分かるようになるのだろう。実際、他人に対して興味を持たず交友関係が然程広くない七条にとっては、それでも大して差し支えがなかった。

 しかしながらあまりに進歩のない彼の状況に、さすがの西園寺も「これでいいはずがない」と感じ始めていたところだった。

 

 

 そんな折、不思議な魅力を持つ転校生・伊藤 啓太と出会い、この兆候 ―――― 悪くない。

 

 

「どうしたんですか、郁?」

 不意に、七条が声を掛けた。

「何がだ?」

「やけに、嬉しそうな目をしていましたから」

 ―――― そう言うお前の方こそ、よっぽど嬉しそうな顔をしているというのに。

 西園寺はそう言いかけて、やめた。
 やはり本人は、てんで気付いていないらしい。いつもの通り、にこにこ、にこにこ。

「何か?」

「‥‥‥ いや」

 その口の端に、つい笑みが浮かぶ。どこか満足げな“女王様”のそれは、穏やか。

「そうですか?」

 西園寺が気分を害した訳ではないと知ると、七条はそれ以上追及することはしない。変わらぬ静かな微笑みを湛えながら、意識を仕事の方に戻した。

 

 

 


 

 

 

 夕刻、斜陽の窓から差し込む頃。
 書類の束は全て処理し終え、机の上からきれいサッパリなくなっていた。

「これで後は、生徒会の書類を待つだけですね」

 だけ、という部分をやや強調する。本当は七条とて、相手が中嶋だからといって別に本人がいないところでまで嫌味を言いたい訳ではない。だが、提出締切を2日も過ぎたデータのためにこちらの仕事まで滞る事態だ。つい毒の入った言葉遣いになってしまうのは、仕方がないだろう。

 普段なら、生徒会のデータサーバに侵入し提出書類を拝借してしまう七条である。けれど啓太転入時のトラブル以来、その手段は少々控えていた。

 自分たちの間で起こるトラブルに、啓太のような無関係の他者を巻き込むのはもう御免だから。

 それに、そのハッキングによって応戦する向こうの手が止まりこれ以上の遅延をもたらすのは容易に想像できるし、そうなればそれこそ本末転倒だ。

 

 と ―――― その時。

 ふと、会計室のドアをノックする音が聞こえた。
 七条が「どうぞ」と声を掛けると、静かに開いた扉の向こうに数冊の本を手にした啓太がいた。

「あ、こ ‥‥‥ こんにちは」

 いつも一緒にいる“同級生”は、今日はいないらしい。少々恐縮したように大きな瞳をパチクリさせて、啓太は一つ室内に足を踏み入れた。

「これは伊藤くん、どうぞ」

 ニコリと微笑んだ七条が言うと、啓太は「はい、失礼します」と控えめながら元気な声で応え、2人のもとへ歩み寄った。

「よく来たな、啓太。ゆっくりしていくといい」

「あ、いえ ‥‥‥」

 西園寺が歓迎の意を表しソファへ座るよう促そうとするのを、啓太はやんわりと断り、用件を伝えるべく七条の方に目を遣った。

「あの、これ ‥‥‥ 預かってきました、王様から。遅くなって悪かった、って」

 そう言って啓太がジャケットの胸ポケットから取り出したのは、クリスタルブルーのフラッシュメモリ。見た目は小さいが、恐らく中には、昨日今日とずっと待っていた膨大な量のデータが入っているのだろう。

 中身などちっとも知らないだろうに、啓太はまるで自分が申し訳ないことをして詫びるかのように小さく頭を垂れた。

「君が謝ることはないですよ」

 フラッシュメモリを受け取り、七条は微笑む。

「君は、生徒会室にいたんですか?」

「そうじゃないんですけれど ‥‥‥ 廊下でばったり王様に出会って」

 ―――― 待ち伏せしていた率は高いな、と。

 西園寺は白々しい眼差しを、ここからは見えない向こうの校舎にいると思しき生徒会長へ放り投げた。
 しかし確かに、賢明な判断ではある。彼自身や中嶋が直接ここへ来るよりは、第三者である啓太を介する方が、感情による余計なトラブルは避け易い。

「助かりました、伊藤くん。ありがとう」

 七条は早速、そのフラッシュメモリをパソコンに差し込んだ。そしてディスプレイに表示されたデータの中身を確認し、「確かに」と一言。

 それを聞いて安心したのか、やや目元が緩んだ啓太は「それじゃあ」と、お暇(いとま)しようと後ずさる。
 けれど七条は、引き留めるべく声を掛けた。

「まぁ、そう急かずに。お礼に、お茶でもいかがですか?」

 美味しいビスケットがあるんですよ、という言葉に、啓太は一瞬気を惹かれたようだった。が、すぐに残念そうな顔をして頭を掻いた。

「ありがとうございます。でも、これからちょっと用事があるんで」

「用事、ですか?」

「はい ‥‥‥。この古文の課題、今日中に提出しなくちゃならないんです」

 啓太が落とした視線の先、彼の手にしている冊子はその課題のファイルらしい。
 時計を見れば、もう教師たちが帰宅する時間帯。ここで引き留めれば彼の成績に関わってくることを察して、七条はと小さく息をついた。

「仕方ないですね。では、次の機会に。また、こちらにいらして下さいね」

「はい。今度、ぜひ!」

 そんな約束だけを交わして、すまなさそうに笑いながら啓太はもう一度会釈をして、忙しそうに会計室を後にした。

 

 

 

「彼は ‥‥‥ 伊藤くんは、不思議な人ですね」

 啓太が部屋を出てから、しばらく。
 先程彼の持ってきてくれたデータのコピーを終え、パソコンのキーボードを打つ手を止めて、七条は呟いた。

「So pure ‥‥‥ 純粋で。彼のような人に、今まで僕は会ったことがありません」

 CD-ROMを取り出す音と同時に、西園寺は顔を上げて声の主を見遣る。
 初めて見る表情だと、西園寺でさえ思った穏やかな笑み。いつものような作り笑いでなく、きっと本当の、好意からの微笑。

 ―――― 臣に、こんな顔をさせるとはな。

 何とも稀少な存在だと、改めて伊藤 啓太という少年の姿を脳裏に描く。

「そうだな。お前にそう思わせるとは、なかなかいない人材だ」

 西園寺のやや驚いたような反応に目聡く気付いて、七条は瞳を細めて一言。

 

「おや郁、ヤキモチですか?」

「 ‥‥‥‥‥‥ 」

 その目に浮かんでいるのはいつもの笑みに戻り、その背には、黒い羽と矢印の尻尾。

 

「妬いてほしいのか?」

 

 しかし、西園寺とてその辺は負けていない。ニッと口の端をつり上げて問うと。
 七条は「まさか」と同じ表情のまま否定し、けれど続けた。

「ただ ‥‥‥」

「‥‥‥ ただ?」

 

「郁が相手では、僕は到底、太刀打ちできませんから」

 

  

 西園寺は、一昔前のコントの如くズルッとひっくり返りそうになったのを、なんとか堪えた。

 

 

 ―――― この期に及んで、この男は何か誤解しているらしい。 

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

 呆れ返って沈黙し、それからやや大袈裟に溜息をついた。

 自分が今どんな表情(かお)をしているか分からないと言うなら、彼の目の前に鏡でも置いて見せてやりたいと思う。

 

 人を誤魔化したときの表情ではない、まして心からの笑みでもない。どこか諦めに似た、控えめな、それ。

 

 

 確かに、自分の存在は七条にとって大きなものだと西園寺は知っている。今まで長い間そうだったのだから仕方ないし、そうあって当然だ。けれどそんな自分にすら見せない表情をさせる“伊藤 啓太”という存在は、全く違う次元にいる者だろう。

 西園寺自身、啓太にはいろいろな可能性を見出し期待している。それは事実だ。けれどそれは、この親友の鉄仮面を剥がすことができるからであって、彼本人に対してはそこまでの関心はない。

 人に与えられるものには、元々興味がない。誰かが自分を犠牲にしてまで贈ろうとしているものなら、尚更だ。
 自分に、そうまでして得たいものなどありはしない。そんなこと、長年の付き合いから七条も分かっているだろうに。

 

 それなのに肝心の幼なじみはこんな調子で、随分とお門違いな台詞を吐くものだから。
 西園寺とて黙ってはいられない。

「ならば臣、お前は私のために啓太を諦めるのか?」

 ピクリと小さく目元を震わせ、挑発するようにやや強い視線を、紅茶を淹れる七条の背に投げつけると。

 

 トポトポとカップに注がれる紅茶の音が、一瞬だけ途切れた。

 

 笑みが ―――― 少しだけ崩れた。顔は見えないが、分かる。背中でも分かるくらい、明らかな反応。これもまた、珍しい。
 しかしそれも刹那、すぐさま平静を取り戻して微笑んでみせる。七条も役者だ。それも、かなり実力派の。

「それが郁の望みなら、僕は」

「諦められるのか?」

 しかしながら勿論、七条よりも西園寺の方が一枚も二枚も上手(うわて)
 間髪入れぬ問い、重々確認するようなその口調に、七条は言葉を失うしかない。

 いつもなら迷うことなく返って来る、従順な「はい」という返事。が、それはいつまで経っても発せられることはなかった。

 

 とりあえず、折角淹れた紅茶が冷めないうちにと西園寺にカップを差し出して。

 

「‥‥‥ 意地悪ですね、郁は」

 

 困ったようにやや目尻を下げて、七条は呟いた。

 

 

 


 

 

 

「おかえりなさい、郁」

 日曜日、海野先生の研究レポート整理を、西園寺と七条と啓太とで手伝った後。
 先に研究室を出た西園寺が用事を済ませて会計部室に入ると、七条は既に戻っていた。

「この書類の期限は、明日でしたね」

 書類の整理をしていた彼は、待っていたと言わんばかりに手にした書類の一部を持っていく。

「そうだ、あとは学生会の決裁を取るだけだ」

「では、こちらの文書も ‥‥‥」

 そんな感じでしばらく仕事の話をし、それらが一段落したとき。
 2人分の紅茶を淹れるべく、七条は部屋の奥に消えた。

 

 それはいつもの風景 ―――― のはずなのに、西園寺はどこか違和感を覚えた。

 もちろん、その正体など求めればすぐに見つかる。

 

「そういえば、お前は啓太と帰ったんだったな」

 アッサムティーを持ってきた七条に、声を掛けたら。

「はい」

 返事はそれだけ。

「‥‥‥ 何か、話したのか」

「ええ、いろいろと」

 紅茶を口に含み、次の言葉を待ってみても。

「‥‥‥」

「‥‥‥‥‥‥」

 至極短い応(いら)えのみ、それ以外に何も言わない。

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 何か?」

 

 暫し続いた沈黙を先に破った七条は、その視線だけは引き続いているのを見て次の言葉を促す。
 何もかもを悟った西園寺は、しかし「いや」と何でもない風を装い小さく肩を竦めた。

 そう ―――― いつもならこちらが何を言わずとも、その日あった全てを報告してくるはずなのに。否、仕事や日常の話はいつも通りする。が、ある特定の話題だけは避けている。こちらからわざわざ振ってみても、何一つ返してこない。

 

 伊藤 啓太の話、だけは。

 

 

「‥‥‥ そうきたか」

 ぽつり、と。
 極々小さな声で、西園寺は呟いた。
 いつもと変わらない幼なじみのその微笑みは今や、宣戦布告のようにさえ見える。もちろん、こちらには戦意など更々ないのだから受け流すだけ、これ以上追及する労力すらも惜しいから何も言わない。

「郁?」

「‥‥‥ まぁ、せいぜい頑張ることだ」

 やがてティーカップの紅茶を全て飲み干し、西園寺は一言。
 突き放すような物言いだが、もともと七条の方から離れたようなものだから、それはそれでいいのだろう。七条は「はい」と、いつもの笑み。

 

 

 

 出会ってから今までずっと、2人の間に隠し事などなかった。

 それが普通で、当然で。別段、不思議にも思わなかった。

 今、それが音を立てて崩れ始めている。
 それは、タマゴが孵化する音。

 

 もう1つの、“2人だけの秘密”の生まれる音。

 

 

 

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