そろそろ、冬が近づいてくる。風が矢庭に冷たくなって、中庭を歩いていた啓太はその足を早めた。
昨夜、寮の部屋にあるパソコン ――― 七条からの“おさがり”PC ――― のメールをチェックをすると、恋人である七条 臣からの受信があった。 内容は明日の土曜日、午後から買い物に付き合ってほしい、というもので。もちろん啓太に断る理由はなく、O.K.返事をすぐに返信した。
『それでは明日、AM11:30に会計室で待っています』
【 恋から始まるミステリー 】
そういう訳で、その翌日である今日、啓太は休日だというのに会計室へと向かっているのである。 校舎内は空調が整っていて、外ほどの寒さはない。コートを脱ぎながら、啓太は廊下を会計室へと歩く。
寒さで赤くなった頬を更に赤くして、啓太はドアを開けた。 「七条さん」 部屋には、彼一人。パソコンの前で、いつものようにディスプレイとにらめっこ。まだ、何かの作業をしている最中の様子。 「すみません ‥‥‥。まだ、お仕事中ですか?」 「ええ、でももうお終いですよ」 言って、七条は優しい微笑む。 強張っていた顔の筋肉が緩んでしまうのは、多分室温の高さの所為だけじゃない。 同じように七条の表情も和らぎ、クスクスと小さく笑った。
「外、寒かったんでしょう。顔が赤いですよ、伊藤くん?」
するりと手を差し出し啓太の目元に触わると、やはり冷たくて。 ―――― 体温が全部移るまでずっと、さわっていたい。 大きな瞳の辺りから鼻筋、唇の端を、撫でるように。 「し ‥‥‥ 七条さん ‥‥‥ ッ?」 しばらくは、その温かさに意識を奪われていた啓太だけれど。不意に恥ずかしくなって、小さく身動(みじろ)いで離れた。 すると七条は、ほんの少しだけ驚いた顔をして。至極名残惜しそうに、その腕を退いた。
「今、温かい紅茶を淹れますね。少しゆっくりしてから、買い物に行きましょうか」
七条は手を止めて立ち上がると、軽くウィンクをしていつもの微笑みを浮かべながら奥の給湯室へと向かう。 やがてパソコンが作業終了の音を立てて、画面を沈黙させた。
その広い背中を見つめながら、啓太はぼんやり考える。
―――― 時々、あの人が何を考えているのか分からなくなる ‥‥‥。
それは、彼に初めて出会ったときから、常に感じること。 (でも ‥‥‥ これで、いいんだよな?) 人間は、機械ではない。だからいくら心が通じ合っても、それでも100%完璧に分かり合えるなんて不可能なのだ、というのは七条の持論。 『タネの分かってしまった奇術(マジック)なんて、つまらないと思いませんか』 シナリオや結末を知っているドラマはそんなに面白くないし、オチがバレバレのギャグも笑うに値しない。
現にこうやって、今の彼がどんなことを考えているのか、推測するのだって楽しいと感じられるのだから。
「どうしました、伊藤くん?」 声が近づいてくるのに、啓太はハッとした。気が付くと、七条がティーカップを2客乗せたお盆を持って目の前に佇んでいる。
「あ、‥‥‥ いえ、何でもありませんッ」
誤魔化しても無駄だということは、承知しているのに。
「伊藤くんにとって、“僕のこと”は『何でもない』ことなんですか?」
―――― なんて言うものだから。
「え ‥‥‥えぇっ?」
それはただの揚げ足取りなのだけれど、単純な啓太はそんな事にも気付かないまま慌ててしまう。 ただ否定したくて、フルフルと一生懸命首を横に振った。―――― が、七条のイジワルは続く。 「でも先刻は、“僕のこと”を考えてくれていたのでしょう?」 珍しく、少し拗ねたような口調。 「はい ‥‥‥ それは、当たりです。‥‥‥ す、すみません」 もともと往生際のいい性格の啓太だけれど、ここまで見事に看破されていては誰だって、言い訳の一つすら思い浮かばないだろう。 いつの間にかその表情は、穏やかになっていて。
「構いませんよ。むしろ、嬉しいくらいです」
言葉の通り、七条はこの上なく幸せそうな顔をした。
「僕のことを想っていてくれているのですから」
そして極上の微笑みを零すと、頬を真っ赤に染めて黙ってしまった啓太へ、何事のなかったかのように白磁のティーカップを差し出した。
「七条さんって本当に、心が読めるみたいですよね」
感心しきった口調でティーカップに口を付けながら啓太が言っても、七条はとぼけたような口振りで「そうですか?」と応えるだけ。 「伊藤くんのことを考えるのは、僕も楽しいですからね」 フフ、といつも通りの笑顔は、一見何かをはぐらかされているようで。そんな態度を、何となく狡く思うこともある。 けれど今は、それよりももっと。
―――― 俺のことを、想っていてくれているんだから。
これほど、幸せなことはない。
それに、彼とて何か特別な超能力を持っている訳ではないのだと、知っている。強いてそれを言葉にするとしたら洞察力、だろうか、そういうものが長けているだけ。
(加えて、俺が単純なのも ‥‥‥ やっぱ、あるよな)
単純なのは悪いことではない、と西園寺に言われたことはあるけれど。所詮、人間は無い物ねだり。色々なことを器用に考えられる人の方が、どうしてもずっと優れて見える。
「‥‥‥‥‥‥」 ―――― 俺は、楽しい。 何を考えているのか分からない恋人のことを、色々と想うのは楽しい。 ―――― でも、七条さんは?
(俺の考えてるコトなんて、きっと七条さんからすれば ‥‥‥)
ちょっぴり自己嫌悪に近くなって、小さく息をつく。 もちろん、それを七条が見逃すはずがなく。
「どうしました、伊藤くん?」 あまり豊かとはいえないその双眸の表情がほんの少しだけ翳りに移ったのを見つけて、啓太は慌てた。
「あ ‥‥‥ えーっと ‥‥‥」
何でもない、なんて言っても。それは嘘だから、きっとすぐに見破られてしまう。かといって、それに代わる他の返答も思いつかない。
「‥‥‥ あの ‥‥‥ それって、本当に面白いですか?」
問われ、七条はきょとんとした。 「何が、ですか?」 こればかりは、さすがの七条にもあまりに唐突だったようで。やや驚いたように、訊いてくる。
「俺の考えてること、予想するの ‥‥‥ 楽しいですか?」 「はい、楽しいですよ」
―――― 即答、だった。
間髪入れぬその素早い答えに、尋ねた啓太の方がぽかんとしてしまう。 「嫌、ですか?」 そんな啓太に、七条は尋ねた。
「そんな!俺、全然イヤじゃありませんッ」
案の定、啓太はブルブルと大きく首を横に振って否定して。 ―――― ほら、思った通り。 だからつい、「それなら、よかったです」と言いつつ頬が緩んでしまう。
気を取り直し、啓太は残り少なくなった紅茶を飲み干して、口を切った。
「‥‥‥ ただ」 「ただ?」
「俺、思ったんです。簡単に解けてしまう問題って、面白くないんじゃないかって ‥‥‥」
―――― それでも、楽しいというのは何故か、と。不思議に思って、啓太は尋ねた。
かつて、西園寺がそのようなことを言ったのを憶えている。
(まして頭のいい七条さんだったら、俺のコトなんて ‥‥‥)
―――― 推理するまでもなく、すぐに分かってしまうのではないだろうか。
七条からみれば、自分など随分と単純にできていると思う。
「そんなことはありませんよ、伊藤くん」 七条は、あっさりと否定して。思いも寄らない言葉が、返ってきた。 「僕にとっては、決してそう簡単な事ではないですから」
「簡単じゃ ‥‥‥ ない?」 意外に思って、つい聞き返すと。「はい」とはっきり肯定されてしまった。 「何故なら、伊藤くんの考え方は、僕のとはだいぶ違うからです」 そうでしょう、と訊かれれば、啓太も頷いてしまう。
(確かに ‥‥‥ 全然、違うよ)
出会った当初は、それでかなり面食らったものだった。
―――― と。
(あ ‥‥‥)
啓太は、不意に思った。
(七条さんも、そうなのかな ‥‥‥) 自分が、七条さんの突拍子のない言葉に振り回されたように。 (俺の行動、七条さんが推測できないことって、あるのかな ‥‥‥?)
ふと、顔を上げると。
紫水晶色した深い瞳を、楽しそうに細めながら。 「合点がいきましたか?」 目の前にいる恋人は、何もかも見抜いているようにクスッと微笑んだ。 その笑顔に、ドキリとして。頬を紅潮させながら、啓太は小さく肩を竦めた。
(‥‥‥ そんなこと、ないか)
「それでは、そろそろ出かけましょう ‥‥‥ 伊藤くん」 そんな啓太を促す声さえ、確信犯めいて聞こえてしまう。
―――― やっぱり、敵わない。 手を伸ばせば触れられる、そんな近いところにいる、分からないことだらけの恋人。
それは、恋から始まる終わりのないミステリー。
――― ENDE ―――
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