よく晴れた、ある秋の日の放課後。 「あ、七条さんっ」 教室から出てきた啓太は、廊下の突き当たりの辺りにいる七条を見つけた。 「こんにちは、伊藤くん。ご機嫌ですね」 手にしているカバンを持ち直す間に、啓太はその傍へとやってきて「はい」と照れながら返事をする。 「すごく心配だった英語のテスト、やっと終わったんで」 そういう啓太の表情には、なるほど、大仕事を終えた後のような晴れやかさが漂っている。
「直前まで英語の勉強を手伝ってもらっちゃったし ‥‥‥ ありがとうございました」 「いいえ。 ‥‥‥ ふふ、お疲れ様でしたね」 2人はそんな他愛ない会話をかわしながら、七条が向かおうとしていた先 ――― 啓太にとっても目的地である ――― 会計室へと歩き始めた。
【 瞳の中の未来 】
それから、1週間後。空は生憎の小雨模様だったが、啓太の表情は曇っていなかった。そして放課後、またいつものように会計室のドアをノックする。 「失礼しますっ」 元気な声と共に、西園寺と七条のいる室内へと入る。 すると。 「おや、英語のテストが返ってきたんですね」 唐突に、七条がそう言うものだから、啓太は驚いた。
テストが返却された、それは事実。そのことを、今から彼に告げようと思っていたところだった。 「え、なんで分かるんですか?」 例えば職員室で、たまたま目にしたとか。または教室の様子を、偶然見かけたとか。
「僕には、予知能力がありますから」
「え」
何とも ―――― 分かりやすいというか、理解に苦しむというか。けれどそれが故に、如何にも彼らしい返答。
「だから、見るまでもなく知っているんですよ」
とはいえ啓太とて、そんなことまで鵜呑みにするほど愚かではない。 (まさか ‥‥‥) 彼に出会ってから今まで、どれだけ同じ手を食らっただろう。いくら何でも、啓太にだってそのくらいの学習能力はある。皮肉にも、からかう彼によって免疫がついてきているのだ。 「‥‥‥ 疑っているんですか?」 「いえ、あの、何ていうか ‥‥‥」 それでも、その生来の正直さはどうしようもなく。 そんな仕草すら愛おしくて、七条は瞳を細めて微笑んだ。そして、少し考えた後、一言。
「では伊藤くん、その点数が82点か83点くらいだったら、信じて下さいね」
「え ‥‥‥ えーッ!?」 今度こそ本気で驚いて、啓太はつい大きな声を上げてしまった。書類の確認作業中で先程の挨拶へも軽い反応しか示さなかった西園寺も、思わず声の方を注目する。 「どうしました?」 「あ、当たりです、83点 ‥‥‥」 「そうなんですか?」 そう言う七条は、まさか当たるとは、という顔をした。 けれどそのやりとりを傍から見聞きしていた西園寺には、七条の表情がそこはかとなく白々しく覚えて額を押さえ、やや大袈裟な仕草で大きく嘆息した。 「臣。冗談は、それくらいにしておけ」 彼独特の命令口調に、七条はいつものように「はい、郁」と平然と答える。その言葉を聞いて、やっと啓太もはたと我に返った。
「西園寺さん ‥‥‥ 冗談 ‥‥‥って?」 「聞いたとおりだ、啓太。まさか、また本気で信じていたのか?」 「は ‥‥‥ はい。だって、点数まで言い当てられちゃったし ‥‥‥」 ぽかんとしたその答えに、もう一度西園寺は小さく息をついた。
けれど啓太にとっては、そう信じるだけの根拠があったのだから仕方がない。
話は、今日のことだけでない。 しかもその上、テストの返却日だけならまだしも、その点数を1の位まで言い当てられては、予知能力についても少しは信じたくなる。
七条は、さすがに申し訳なさそうに苦く笑った。 「すみません、伊藤くん。まさかここまで信じてもらえるとは、思わなかったので」 但し。言葉では謝っているが、いつもと同じ罪悪感の『ざ』の字もない声音と笑み。 敢えて彼を弁護するならば、その“うそから出たまこと”の的中率は彼にとっても意外だったのだけど。
「し ‥‥‥ 七条さん〜」
いつもいつもよくできた冗談で自分を混乱に陥れる彼をジト目で見つめると共に、毎度毎度その冗談に騙されてしまう自分の不甲斐なさに落ち込みつつ。啓太は、最大級の溜息をついた。
(‥‥‥ でも、それじゃあどうして七条さんは分かったんだろう)
会計機構の手伝いをしている最中、啓太は考えた。
彼のからかい方は、大きく分けて2種類ある。1つは、例えば転校してきてすぐのときに聞いたシェルターの話のような、説得力はあるけれど全くのデタラメ、というパターン。そしてもう1つは、例えばノックの音質を聞き分けているというカラクリがあるのに、わざと冗談に変えるパターン。今回の『予知能力』云々は、後者に属するだろう。 だから、気になる。どこかに、トリックがあるはずだから。
今日の仕事が一通り終わった後、休憩のティータイム。 応接セットのソファに腰掛けた西園寺と、その傍らでティーポットを手にしている七条に、啓太はその問いを投げかけてみたが。
「それだけお前の表情が単純で分かり易すぎるんだろう、啓太」
サクッと即答する辺り、さすがは女王様。本当に、彼の表現は容赦がない。 ただ、それだけで解けない謎は1つある。
「でも俺、そんなに『83点』って顔、してました ‥‥‥?」
―――― どんな顔だ、それは。
七条は微笑み西園寺は呆気にとられて、それぞれ別々の「そんな訳がない」を無言で表現した。 啓太も無論、本気でそれが可能とは思っていない。
そもそも、表情で得点が分かるはずがない。確かに大まかに『良い』とか『悪い』とかは見当をつけることができるかも知れないが、細かい数値までとなると話は別だ。
「愛の力、ですね」
彼はニコリとたった一言、それだけで全てを片付けて、静かに紅茶を口に含む。
西園寺は呆れ返って啓太は恥ずかしくなって、それぞれ別々の意味で眩暈を覚えた。 ―――― 彼が、冗談ではなく本気で言っているのは、分かったから。
その沈黙には苦笑を禁じ得ないのは、七条だった。
「‥‥‥ それでは、無粋ですが、1つずつタネを明かしましょうか」 伊藤くんのために、と銘打って。飲みかけのティーカップを置いて、口を開いた。
「まず1つ。君のクラスの英語を担当している教諭の授業を、以前僕は受けたことがあるんです」 だから、問題の出題傾向がある程度予想できた。そしてそれだけでなく、啓太のクラスの時間割を知っていれば、解答用紙返却のタイミングも大凡(おおよそ)の予測はつく。 「それから、勉強を教えていたときの君の様子や、今日ここに来たときの表情ですね」 啓太の英語の実力については、彼の勉強を見てあげているときに大体理解した。それから彼自身に聞いた、今までに取ってきたテストの点数とも併せて考えて、少なくとも英語はそんなに得意な科目ではないという結論に達して。 「あとは、言葉のトリックです」 「言葉の ‥‥‥?」 「はい。僕は、『83点』と断言してはいないでしょう?」 言われて、記憶を辿ってみる。言葉尻まで細かくは憶えているはずもないが、確かに『82か83くらい』という曖昧な言い方だったと、啓太は頷いた。 「2つの数字を言えば、確率は倍になりますから」 例えば、10分の1は10%だが、10分の2、つまり5分の1だと20%になる。当たる率も、それだけ高くなるという訳で。 そして結果的に、たまたま七条の言った2つの数字の1つが、啓太のテストの点数と一致してしまったから、啓太はピッタリ言い当てられたと錯覚してしまった ―――― と。
「‥‥‥ そういうところです」 「は ‥‥‥ はぁ ‥‥‥」 理には適っている、のかも知れない、が。
(納得できたような、やっぱり分からないような ‥‥‥)
啓太は小さく生返事をする共に、微かに眉を寄せた。 「七条さん、そこまで考えていたんですか ‥‥‥ ?」 確率の話まで出てきて、何だか難しいことを言う七条に問うと。
「恋人のことは何でも知りたいし、いつでも考えていたいと思うでしょう?」
よく考えると恥ずかしくなるような台詞をさらっと言われてしまい、逆に啓太の方が照れてしまって頬を紅潮させた。
そして、トドメ。
「だから。論理の結果も偶然の一致も、全て愛のなせる業(わざ)、ですよ」
極上の微笑みを浮かべた唇が耳元に触れそうなくらい、近くで囁かれてしまって。 その吐息を感じたところから真っ赤になった啓太に、抗う術は、なかった。
それから10分と経たないうちに、書類を提出しに西園寺が会計室を出ていった。
急ぎの書類で自分が話を付けた方が話が早いと、女王様御自ら生徒会室に向かったのだ。 彼は用件が終われば直接帰寮すると言っていたし、本日中に処理すべき事項は全て終わっているから、啓太たちにもここに長居しなければならない理由はない。
ふと気が付くと、外も随分と暗くなっていた。まだ時刻はそんなに遅くないものの、雲は相変わらず太陽の光を遮っていて、ただでさえだんだんと短くなっている日照時間を縮めている。 窓の外を見てそろそろお暇しようと言う七条に、啓太も従った。
「それにしても、やっぱりすごいですよね」 寮へ向かう、道すがら。 からかわれた感は強いけれど、それでも彼の思考力には舌を巻く。 「本当に、予知能力があるみたいでしたもん」 「ありがとう」 ふふ、と静かに笑って七条は続けた。 「けれど予知というのは、そんなに難しいことではないんです」 「‥‥‥ そうかなぁ」 うーん、と考えて、啓太が唸っていると。 「それについてじっくり考えて情報を集めれば、自ずと見えてくるものですよ」 天気予報なんてその代表格でしょう、と。七条は言う。
「だから」
寮の建物が見えてきた、道の上。ふと立ち止まって、七条はウィンクをして。
「伊藤くんも、僕のことをずっと見ていて下さいね」 にこり。 (‥‥‥)
「そうしたら、きっと分かるようになりますよ」 にこにこ。 (‥‥‥‥‥‥)
穏やかな笑みの間に、時折見える黒い羽。
(‥‥‥‥‥‥‥‥‥ 多分、無理だと思う ‥‥‥)
出会ってから今までずっと見つめているのに、一向に読めない彼だから。 ―――― 分かったのは、この人がとても不思議な人だということだけ。
ミステリアスな恋人は恐らく、この先も変わることはないだろう。 けれど。
(それでもいい、か)
諦めた訳ではないし、たとえ永遠に分からなくても、その姿を胸の内に留めておきたいと想う気持ちが覆ることはないから。
照れ笑いを大きな瞳に浮かべ、啓太は再び歩き始めた。 「頑張りますね、俺っ!」 振り返って、元気な声でそう告げると。 前を行く恋人を紫水晶に映して、七条は微笑みを返す。
「僕たちはこれからもずっと、こんな風にお互いを見つめているのでしょうね」
小さく、そう呟いて。
―――― これは、予言。
未来を当てる最高の方法は、それを自分の力で実現させること。
―――― だから僕たちは、自分で決めたお互いの瞳に映る未来に向かって、歩いてゆく。
――― fin ―――
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