心が狭い僕を、どうか許して下さい。

 そんなのは考えすぎだと、君は苦笑いを零すのでしょうけれど。

 けれど僕は、あのような君を見ているといつもこの物語を思い出す。

 そして、僕にとって君は何であるかを、知らしめる。

 

 ―――― 君は知っていますか? 遠い遠い昔の、異国の物語です。

 

 

 

  【 君はヴィーナス 】

 

 

 

 あるところに、それはそれは美しい一人の少女がいました。神々の王は彼女を見初め、何とか彼女を手に入れられないかと思案しました。

 ある日、彼は彼女がよく散歩をする海辺にやってきました。そして、そこにいる牛の群の中に、自分も純白の牡牛に変化して紛れ込んだのです。
 何も知らない少女は、その白い牡牛の美しさに感激して近づきました。そしてその牛が大人しいと分かると、その角に花冠を飾ってやったりその背に乗って波打ち際にまで行ってみたり、楽しく時を過ごしました。

 けれどそんなとき、突然その牛は彼女を乗せたまま沖へと海を渡り始めたのです。無論、彼女を自分のものにするために。
 驚いた少女は為す術もなく、ただ落とされないようにその牛の角にしがみついていることしかできませんでした。そしてそのまま、遠くの島まで連れていかれ ――――

 

 

 

「‥‥‥ その神様のものになってしまった、んですか?」

 

 語りの最後、七条は静かに口を閉じてしまったから。

 啓太はそれを補うように、問うと。

「えぇ、そうです」

 語り主は、小さく頷いた。 

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 ここは寮の、七条の部屋。たった今、2人でここに入ってきたところだった。

 但しこの場合はむしろ、啓太が七条に強制連行されてきた、という表現の方が正しい。

 

 授業が終わり会計機構へと向かう道すがら、資料を取りに行った帰りという七条と中庭でばったり出会ったのだけれど。そのとき啓太を連れ去るべく繋がれた手は、今も離れない。

 

 七条がどうしてこのような行動を起こしたのか、というと。

 ―――― 七条命名・ラブファイターこと成瀬 由紀彦の、強力なアプローチ。

 

 啓太が七条と“恋人”として付き合っていることは、彼もちゃんと知っているはずなのに。
 それを理解していないのか、はたまた単に認めたくないだけか、まだまだそう簡単には諦めてくれない。未だに、事ある毎に啓太にちょっかいを出してくる。

 そんな、懲りない彼の性分こそが、『ラブファイター』と呼ばれる所以なのだろうけれど。

 

 今日もまた、そんな感じで。

 

 その場に七条が既にいたにも関わらず大きな声で「ハニー!」と啓太を呼び止め、嬉々として駆け寄ってきて。部活の様子を見にこないか、とか、一緒に何か飲みにいこう、とか。いろいろと、強引なお誘いをかけた。

 啓太がこのBL学園にやってきてからずっとの日常茶飯事とはいえ、それでもなかなか慣れないというか、上手い躱し方が分からないというか。人の好い啓太はやんわりと断ろうと努力はするのだけれど、当然の如く焼け石に水、暖簾に腕押し、糠に釘。

 もちろん、それを七条が許すはずもなく。一つ大きく息をついて、ニコリ、と。

「成瀬くん?」

 怒るでもなく、まして哀しむでもなく。それはもう、冷たい冷たい微笑みを象(かたど)った唇でゆっくり彼の名を呼ぶ。

 

 こうなると、成瀬に勝機はない ――― 最初から勝ち目は微塵もないのだ、というツッコミは、とりあえず置いておくとして ―――。
 この得も言われぬ迫力に、辺りの空気は刹那に凍りつく。愛しのハニーを見つけられ上機嫌だった成瀬の表情も、一気にフリーズして乾いた笑いに変わった。

 

 そして七条は、同時に硬直してしまった啓太の腕をぐいと引き寄せたかと思うと。

「行きましょう、伊藤くん?」

 

 次の瞬間、踵を返して。 一体何処へ、と問う間もなくそのまま寮に引っ張られ、現在に至る。

 

 

 

 部屋に入ってすぐベッドに並んで腰掛けると、そのままの勢いでぎっと抱きしめられた。

「し、七条さん?」

 我に返った啓太は、その力にやっと声を上げた。

 彼には時々こういう強引ところはある、というのは知っていた。けれど、他人の前でここまであからさまな行動に出るのは、啓太には珍しく覚えた。

 抗うつもりは更々ないが、つい強い口調になってしまうのは仕方ないと啓太は思う。そしてそれを認めているかのように、七条も「すみません」と言う ―――― いつも通りの、けれど何処か不安そうな笑顔で。

  

 そして彼が語り始めたのが、遠い異国の少女の物語だった。

 

 

 

 それを以て七条が何を伝えようとしているのか、啓太には分かりかねた。 

 MVP戦が終わって1週間後に、本当の恋人同士になって。それから更に、1ヶ月が経とうとしている。出会ってからは、一緒に過ごしている時間を密度でいえば随分と濃い。

 けれど今でも、彼の考えていることは本当に読みにくい。

 

「どうしていきなり、そんな話を ‥‥‥?」

 だから、思った通りを質問する。そんな素直さは、啓太の美点。

 

「この話を、‥‥‥ こんな時は、思い出すんです」

 言って、七条は苦く笑った。

「君が、彼に言い寄られている時は特に、ね」

「‥‥‥ って、成瀬さんに?」

 

 啓太はきょとんとした。

 確かに、あそこまで強烈に好意をオープンにしてアピールしてくるのは、今も昔も成瀬だけだ。それこそ、牡牛が勢いのままに少女を連れ去ろうとする、そのイメージに当てはまるかも知れない。

 ―――― そうすると、連れ去られる少女は啓太自身。

(でも、俺はそんな美女じゃないし)

 自分の放っている魅力にはてんで鈍感な啓太は、その可能性をあっさり却下した。
 だから、また謎だけが残ってしまう。どうも分からなくて瞳をパチクリさせている間に、七条はクスクスと、いつもの優しい表情に戻っていた。

 

「‥‥‥ この話は、ギリシア神話の中の1つなんですよ」

「ギリシア神話?」

「はい。伊藤くんは、ギリシア神話をどのくらい知っていますか?」

 

 えーっと、と啓太は小さく考え込んだ。

 ギリシア神話はいわばオムニバスであり、1つの大きな物語ではない。もちろん主軸になる登場人物やエピソードはいくつかあるが、啓太が知っているのはその中の何人かの登場人物の名前と、有名なごく一部の話だけだった。

「‥‥‥ 星座の名前になっている、ってことくらい、かな」

 一番最初に思いついた名前が、先日深夜に七条と一緒に見た冬の代表的な星座『オリオン』だったから。
 ぽつりとそう呟いた後、そのあまりの知識の乏しさに、何だか気恥ずかしくなってしまう。

「すみません、あまり知らなくて」

 照れながら啓太が言うと、「いいんですよ」とクスッと七条は微笑んだ。

「この物語も、星座の話ですから」

「そうなんですか?」

「はい。きっと、君もよく知っている星座ですよ」

 まるで、それは何だと思いますかと、尋ねるような瞳に。
 では何座だろうか、と啓太も懸命に思案する。

 自分の知っている星座の数なんてたかが知れているから、相当メジャーな星座なのだろう。

(あの物語に登場したのは、少女と神々の王だけだよな)

 もう一度、物語の場面を脳裏に描いてみる。

(で、その女の子が、牛に姿を変えた神様に連れ去られて ‥‥‥)

 そこで、やっと一つの答えに辿り着いた。

 

「牡牛座 ‥‥‥?」

 

 それは、自分の生まれの星座。七条が言った『君もよく知っている』というヒントと照らし合わせても、ちゃんと適っている。そして、自分の状況を見てこの神話を思い出すというのも、何となく分かる気がしてくる。

 顔を小さく上げて彼の面持ちを伺うと、それが正答だということが分かって。何だか嬉しくて、つい頬が緩んでしまう、と。

 ―――― 油断大敵。

「ご名答」

 そう、静かに耳元で囁かれて。その上、その唇がそのまま首筋に触れたものだから。
 思わず、「ひぁっ」小さく声を上げてしまう。
 何よりもその声と吐息にドキリとさせられ、啓太は頬をかぁっと紅潮させた。

「七条、さんッ」

 不意をつく口付けに狼狽えてしまった啓太と対照的に、七条の方はといえば。

 

「僕は、君をエウロパのように ‥‥‥ ゼウスなどに渡したくないんです」

 

 いつもよりやや控えめな笑みを浮かべ、穏やかに。

「エウロパ ‥‥‥? ‥‥‥ ゼウス?」

 リズムが狂いドキドキと速く鳴る鼓動をどうにか抑えるために、意識を別の話へ持っていこうと努めて。啓太は、その固有名詞に懸命にしがみついた。

 ゼウスという名は、聞いたことがあった。その物語にも出てきた、有名な神様の名前。とすると、エウロパというのは少女の名前なのだろう。

 けれど、そうすると腑に落ちない。

 

「‥‥‥‥‥‥ 成瀬さんが、ゼウス、ですか?」

 

 ゼウスといえば、全能神。七条の言ったように、神々の王でもある。

 成瀬の行動パターンとそのエピソードの牡牛は、似ているかも知れない。が、だからといって彼をその全能神と同一視するというのは、七条にしては些か短絡的のように思う。
 彼のテニスの腕前は確かに素晴らしいと啓太も思うけれど、それ以外の事柄については特別に秀でた点はないのだろう、よくは知らない。

 ―――― それに、『王』と呼ぶに相応しい人物なら、むしろこのBL学園には既に存在するじゃないか。

 

 丹羽 哲也生徒会長の姿が、啓太の脳裏には浮かぶ。

 

「彼は ‥‥‥ 丹羽会長は、アポロですよ」

 そんな啓太の思考を完璧に読みとって、七条は言った。

「アポロ ‥‥‥」

「そう、太陽の神です」

(王様が、太陽 ‥‥‥)

 そう言われれば、自然にそのイメージが湧く。なるほど、と啓太は妙に納得してしまい。

(‥‥‥ じゃなくて〜!)

 けれどすぐさま、思考を元に戻した。

 

「じゃあ、なんで成瀬さんがゼウスなんですか?」

 話を本題に戻し、もう一度同じ事を問うと。

「彼は12月生まれで、射手座ですから」

 七条は答えた、けれど。
 それは、理由というには少々間接的だったもので。だから啓太は更に分からなくなり、混乱して満面に疑問符を浮かべる。

 すみません、と啓太が更なる説明を求める前に。

「射手座の守護神はジュピター、つまりギリシア神話で言うゼウス神なんですよ」

 やはりそれを見越して七条は答え、静かな笑みを零した。

 

 

 

 ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

 

 

 

 人は誕生日をもとに、いわゆる黄道12星座を当てはめる。例えば、5月上旬生まれの啓太は牡牛座、9月上旬生まれの七条は乙女座、という具合に。
 そしてその星座毎に1人ずつ、守護神がいると考えられているのだと、七条は説明するのを、啓太は興味深げに聞いていた。

「星座による性格診断は、その守護神の性質によるものも多いんです」

 もちろんその星座の神話に起因するものもありますが、と付け加えた。

 

 ギリシア神話における神々の王、万能神ゼウスはこの上ない色事師として知られる。ギリシア神話の登場人物で、美人とされる女性の大半は彼の手にかかっていると考えても過言ではないだろう。

 それに。

 

「ゼウスは、美女だけでなく“美少年”も追いかけていましたから」

「‥‥‥‥‥‥ はいぃ?」

 欧州の神話の中では、そういう話は別段珍しいことではないのだけれど。日本にだって、歴史上の権力のある男性が少年を侍らせることなんてよくあることなのだけれど。

  そんな予備知識の殆どない啓太は驚いて、素っ頓狂な声を上げた。

「水瓶座の神話は、まさにそういう話ですしね」

 

 

 そこから導き出されるイメージは、一言でいうと『節操なし』。

( ‥‥‥ そういえば、和希曰く「プレイボーイ」、だもんなぁ ‥‥‥ )

 何でもなるべく良い方に良い方にと捉えようとする、優しい性格の啓太である。素直で物事を鵜呑みにし易い傾向はあるが、実際に見てもいないのにマイナスの印象を与える言葉を信じる、ということは、実はあまりしない。
 成瀬に関しても同様で、例外ではない。事実、あまりに表現がオープンすぎて内心辟易してしまうことはあるが、ベクトルは一直線で横道に逸れない ――― むしろ逸れてくれた方が、と考えてしまうことはあるけれど ―――。その点、親友の言うような「プレイボーイ」とは、ちょっと違う気がする。

 けれど七条の言うことも、理には適わないはずなのに妙に肯(うなず)けてしまって、何だか無視できない。

 

「‥‥‥ 伊藤くん」

 不意に、七条が呼びかけた。
 けれど深く考え込んでしまっている啓太からは、返事がない。だからもう一度、今度は少しゆっくり。

「伊藤くん」

「は、はい?」

 やっと我に返ったのは、その声が吐息となって啓太の耳元を掠めたから。
 普段よりやや高さを失った声音に、含まれるのは微かな怒気。しまった、とばかりに思わず顔を上げると。

「〜ッ ! ! 」

 唇を、塞がれて。目の前から一瞬、景色が消えた。

「し、七条さんッ?」

 やっと視界が戻り、何事かと恋人の名を呼べば。

「‥‥‥ 僕の目の前で君が、他の人のことばかりずっと考えているからですよ」

 少し苦めの笑顔の奥底、小さな嫉妬と悪魔の羽と。

「あ ‥‥‥ す、すみません」

 七条の顔に、あからさまな嫌悪は表れていないけれど。
 いつもと通りのスマイル、なのだけれど。

(う、ちょっと、こわい、かも)

 気が付けば、顔の筋肉だけで形作られた笑み。本気で、嫉妬してる。そのくらいは、いくら鈍感な啓太でも分かる。

 

「伊藤くん」

「はいッ!?」

 

 

「‥‥‥‥‥‥」

 

「‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

 

 

 ―――― 沈黙。固まったまま。

 先程と同じパターンだから、つい警戒して。珠のような目を見開き、啓太が顔を真っ赤にして見上げた先。
 逆光でも分かる自分より幾分か白い肌と、白銀糸の髪。その明るい色彩と対照的な紫水晶の瞳は、今度こそ優しい色を湛えていた。

 

「まったく ‥‥‥ 君も、彼と同じですね」

 

 七条はそう言うと、腕(かいな)で抱きしめて。

 

 ―――― 君も、君自身の守護神とよく似ている。

 心の中で、そう呟いた。

 ―――― 最初は君をエウロパのようだと思ったけれど、僕にとっては違う。

 

 牡牛座の守護神は、愛と美の女神。
 無意識のうちにその魅力を振りまいて、みんなを虜にする。誰もが、君を愛してしまう。
 恋人が魅力的なのは嬉しいけれど、それに無自覚な恋人だと気苦労はたえない。

 

 

「‥‥‥ 困ったものです」

 少しだけ、七条は苦く笑った。

 けれどそれ以上何も言ってくれないものだから、啓太の方はますます訳が分からなくなる。

 

「同じって、 ‥‥‥ どういうコトですか?」

 丸い瞳をパチクリさせながら啓太の問う声と表情が、少し焦りを帯びた。自分が彼を苦しめているのなら、早くそれを知って直したいから。

 七条は少し驚いたような顔をして、そして微笑んだ。

 

 上目遣いで心配そうにこちらの様子を伺っている表情さえ、七条の心を捕らえて離さない。啓太のそんな素直さこそが、彼の最大の魅力。

 

「‥‥‥ ナイショ、です」

 

 

 クスッと、いつもの一言。それから、啓太の肩口に顔を埋(うず)めて小さな声で囁いた。

 

 

 

 ―――― 君は、僕だけのヴィーナスでいて下さいね。

 

 

 

 ――― ENDE ―――   

 

 

 


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