「あれ」

 

 学園の校舎から寮に向かう途中、中庭の辺りで不意に啓太は足を止めた。空から何か冷たいものが零れた気がして、天を仰ぐ。
 気のせいかと思ったが、そうではなかった。

 先程まで、空を覆っていた雲はそれでも微かに陽の光を提供してくれていたというのに、今はその色だけがやけに濃く薄暗い。それでも、予想していたものは目には見えなかったけれど。 

「わっ」

 見えなくとも瞳に直接クリーンヒットした雨の滴に、啓太は思わず驚きの声を上げた。

 柔らかくも冷たい矢は、ぽつぽつと容赦なく落ち始めた。その数をゆっくりと、しかし確実に増やしていく。その勢いも、だんだんと強くなっている気がする。

 のんびりしている場合ではなさそうだと、そんな結論に達するまでほんの数秒。

 生憎、今は手元に傘はない。けれど濡れネズミにはなりたくない、と。あちこちを見回して雨宿りできる場所を探した啓太は、視界に入った東屋へと猛ダッシュで駆け込んだ。

 

 

 

 【 空からこぼれたStory 】

 

 

 

 今朝観た天気予報では、降水確率は50%だった。
 半々の確率に、啓太は窓の外を見た。曇ってはいたがそんなに雲は厚くなかったから、傘を持って行くかどうか少し迷った。けれどすぐに、教室に自分の置き傘があることを思い出し、少なくとも午前中は大丈夫だろうからと高をくくり、傘を持っていくことをやめたのだけれど。

 授業が終わり、いつものように会計室に行って手伝いをして。あとは書類を持って行くだけと生徒会室に向かった西園寺と七条の2人と別れて、啓太が一足先に帰寮しようとしたときには雲間から小さな晴れ間すら覗いていて、雨のことなんてすっかり失念していた。

(さっきまで、明るいと思ってたのに ‥‥‥ 薄曇りだったけど)

 砂埃が雨水を含み、独特の匂いを辺りに撒き散らしている。

(50%、当たっちゃったな ‥‥‥)

 

 ブレザーの肩の辺りだけ色が濃くなる程度で済んで、それでもラッキーだったと啓太は思った。

 つい数日前に降った雨のときは暖かくやや蒸す感覚すらあったが、今度は寒冷前線が降らせている雨だからそうはいかない。ただでさえ、秋もそろそろ終わろうとしているこの季節。下手に濡れれば、かなりの高確率で風邪を引いてしまうだろう。

 顔や髪に付いた雫をハンカチで軽く払い、啓太はぼんやりと東屋の外に目をやった。

 

(通り雨 ‥‥‥ だといいんだけど)

 

 小さく息をつき、ベンチが濡れていないことを確かめて。啓太はそこに腰掛けた。

 少し待てば、やむだろう ―――― にわか雨であることを期待して、ぼんやりと空を伺いながらここで少しの間待つことに決めた。

 

 

 ぼんやりする暇があったら今日出された課題でもやってしまおうか、と。英語のテキストをカバンから取り出してみたけれど。

(く、暗くなって読みにくい ‥‥‥)

 冬が近づいて日も短くなり、その上この空模様。本を読もうとする方が無謀だと、すぐに諦めた。

 

 

 雨足は、期待を裏切り次第に少しずつ強くなる。

(どうしようかな)

 傘は、1年の教室のロッカーの中に置きっぱなし。島とはいえ、その敷地をフルに使っているこの学園は意外と広い。ここから一番近い校舎までの道のりと寮に辿り着くまでの道のりは、どっこいどっこいといったところだろう。寮の方がやや遠い気がするが、だからといってずぶ濡れになってまで傘を取りにいくというのも本末転倒だ。
 傘が自分からこちらへやってきてくれればなぁ、なんて考えがふと頭に過ぎったが、それこそ絶対にあり得ない。

 

 

(‥‥‥‥‥‥ 帰ろう)

 雨はその勢いを失う気配がなく、むしろ本降りになってきたようだ。風も、少し出てきた気がする。ここで時間を費やしているより、急いで帰った方が得策だ。
 濡れそぼったって、帰ってすぐに着替えれば済むこと。気を付けてさえいれば、風邪だって引かないだろう。

 

「よしッ」

 気合いを入れるような声を零して、カバンを濡れないようにブレザーの内側に庇うようにして抱え、意を決して寮へ向かって駆け出した。

 

 と ―――― しばらく走ったところの、傍の曲がり角。

 

「えッ!?」

 ちょうど木の陰になった死角から、人影が現れて。

 雨に視界を奪われた状態で駆けていた啓太は急ブレーキが利かず、その胸元に顔からつんのめる形になる。

 

 その衝撃や、おでこの辺りを強く打った痛みより。

 

 その、たった一瞬だけ見えた傘の色に。

 よく見知っている背格好、バランスを崩しかけた自分の体をしっかり受け止めてくれる腕、その温かさに。

「おや ‥‥‥ 」

 そして、驚いているようでしかし意外と平然とした、そんな声音に。

 

 啓太は吃驚して、すぐに顔を上げた。

 

「し、七条さんッ!?」

 違えるはずのない、恋人の名を叫ぶような勢いで呼ぶと。

「はい、伊藤くん」

 そんな啓太の驚きなどには全く動じない、これまた至極穏やかな瞳で。七条は、ニコリと微笑み応えた。

 

 

 

◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 

「東屋に、いたのでしょう」

 

 なおも蕭々と降る雨の中、1つの傘の下で2人は向かい合って佇んだ。

 左側は小脇にカバンを抱えたままその手に傘を持ち、右手のハンドタオルで七条が雨に濡れた啓太の髪や肩を軽く拭う。

「雨が降るから、僕は君を迎えに行くつもりだったのに」

 言って七条は、小さく苦笑いを零した。

 

「そう ‥‥‥ って、どうして東屋にいたって知ってるんですか!?」

「ふふ、それは秘密です」

 

 単に、この辺りで雨宿りできそうな場所といえば東屋くらい、というだけなのだが ―――― 敢えて秘密にするのが、七条流。そんな彼の、人差し指を自分の唇にやる仕草には、啓太は何も言わない。

 それに、啓太にはそれ以上に意識を支配することがあった。

 

「七条さん、もしかして、その傘 ‥‥‥」

 ちょっとだけ視線を上げて、雨水を含んで少し撓んだ傘を見つめると。その先を言わなくても、七条はちゃんと答えた。

「はい。1年の教室にあった、君の置き傘ですよ」

「やっぱり ‥‥‥」

 この黒い折りたたみの置き傘は、ここに来てからは一度も今まで使ったことはない。教室にそれを置いていることを話したこともなかった。けれど、彼ならば知っていてもおかしくない。特に根拠がある訳でもないが、無条件にそんな気がした。

「すみません、勝手に拝借しまいました」

 

 自分も実は傘を持っていなかったものだから ―――― と。

 けれど台詞とは裏腹に相変わらず、悪びれた様子もない。この傘の持ち主が、そんなことで怒る人間ではないと分かりきっているから。

 そして、その通り。

「いえ、構わないですよ」

 道理で見覚えがある傘だと思った、と啓太は笑った。

 もともと、自分のものを他の人に勝手に使われたことで腹を立てるような性格ではないし、むしろ七条の役に立ったと思うだけで嬉しいくらいだ。

 それに、自分の頭や肩を優しく拭いてくれる感覚が何だか心地よくて、ついぼーっとしてしまう。

 

 

「‥‥‥ さぁ、そろそろ行きましょうか」

 ハンドタオルをカバンの中にしまい、七条は傘を持ち直した。

「のんびりしていると本当に風邪を引いてしまいますよ、伊藤くん」

「は、はいっ」

 

 くいっ、と腕を引っ張られ、啓太はハッとして七条と同じ方向に歩を進めた。

 

 

 と ――――

 

「し、七条さんッ!?」

 その右腕が背中から啓太を包むようにまわされ、更に近くに引き寄せられて。

「あの ‥‥‥ ッ」

「この傘は折りたたみで、ちょっと小さいですから」

 啓太が驚いて、つい声を上げそうになったところ。七条がそれを制するように、口を切った。

「このくらい近くにいないと、君が濡れてしまいます」

「俺はいいんです、もう充分濡れてますし ‥‥‥」

「でもこうしていると、寒くないでしょう?」

 そういえば、と気付いた。冷たい雨に当たったはずなのに、そんなに寒くない理由。それは彼の、温かい腕のお蔭。
 それはもちろん嬉しい、けれど。

 

 こんな自分にピッタリと引っついていたら、七条の方が濡れてしまうだろうと啓太は思う。そんなの、何だか申し訳ない。

 

 

 それに何より ―――― 腰を抱かれた形で歩くのは、やっぱりちょっと気恥ずかしい。

 

 

「大丈夫、誰も見ていませんよ」

 

 

 そんな啓太の思考を寸分違わず読んで、尚且つ先手を取ることでその反論を封じ込める。七条 臣の、得意技。

 

「それに ‥‥‥ 僕がせっかく拭いてあげたのに、また濡れる気ですか?」

「あ ‥‥‥」

 そんな彼が不意に見せる“ちょっと困ったような顔”にも、啓太は弱い。確かにそれは悪いかもと、ちょっとだけ肩を竦めると。

「役得ですから、僕は一向に構いませんけれどね」

 クスクスと笑みを浮かべ、七条がしれっと言い放つものだから。

 

「しッ、七条さん〜っ!」

 

 啓太はつい、ムキになって。
 けれど同時に、タオルで肩や髪を撫でるように抜いてくれたあの感触も思い出してしまって。

 

 もう一度あんな風に、なんて、不謹慎にも考えてしまって。

 どんな顔をしたらいいのか、分からなくなる。結局、頬を紅潮させるしかなかった。

 

「伊藤くん、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」

 熱があるのでは、と七条がその手で額や頬に触れた。それすら気持ちよく覚えてしまう、末期症状。

 

(七条さんのせいです、それ ‥‥‥) 

 

 なんて、言えず。
 指摘されても、もちろん、耳まで赤く染まったのを元に戻すことなんてできない。

  

 大体そんなことは、彼なら気付いているはずだろうに。
 けれどそれでもとぼけてみせる、確信犯。

 

「帰ったらすぐに、2人で一緒にお風呂に入って温まりましょう」

「え、あの、えーっと ‥‥‥」

「ねぇ、伊藤くん?」

 

 

 

 クスクスと、微笑む七条の。その背の黒い羽だけは、気付いていた。

 けれど、啓太は知らない。

 

 

 

 ―――― 空からこぼれていた雨は、既にやんで久しいことを。

 

 

 

――― ende ―――