日本の夏は、暑い。しかも、ただ暑いというだけでなく、蒸し暑い。 だから日本人は昔から、その暑さをしのぐために色々と生活様式に工夫を凝らしてきた。 しかしこの現代では、暑さを回避する術(すべ)なんていくらでもある。クーラーなどの家電製品は、その最たるものだろう。 それらにはあまり趣がないのは分かっているけれど、現代っ子の啓太は文明の発達に感謝せずにはいられなかった。
【 WHITE BREATH 】
夏も盛りの、お昼前。
ノックをして会計室の扉を開くと、外より少しひんやりとした心地よい空気が流れ出て肌に触れた。 ちょっと大きめのスポーツバッグを肩に掛けた啓太が「失礼します」と部屋に入ると、七条がひとり会計室の奥の方で、いつものようにノートパソコンのキーボードを叩いているのが見えた。 啓太の入室に気付いた七条は、不意に手を止めて顔を上げた。 「こんにちは、伊藤くん」 大好きな声が聞こえる。それが何だか嬉しいくて、つい口元が緩んでしまう。直接この声を聞くのが、およそ2日振りだからだろうか。
夏期休業中は、学課の方は当然休みだ。だが、課外活動はそうではない。練習試合や合宿、それらを含む遠征など、部活動の方はむしろ活発に行われる。だから当然、生徒会や会計機構もほぼ通常通りに機能している。
しかし、もちろん例外はいる。 七条には帰省する理由も義務もなく、もともと帰るつもりなど全くなかった。
小さな頃育った異国に、そういった風習がなかったせいもあるのだろう。それにお墓参りといったって、母方の日本人の親戚とは疎遠になって久しいし、家族はそれぞれバラバラに行動しているから、どうせ実家に帰ったところで誰かが待っている訳ではない。それなら、ここの留守を守っていた方がよっぽど有意義、という訳だ。 ちょうどこの時期、会計機構では上半期の決算という大きな区切りがある。しかしながら、どこかの誰かさんのように仕事をサボって溜め込んだりしていないから別段忙しくはなく、七条ひとりでも十分に作業を進められる。
ちなみに、彼の恋人たる啓太はというと。
「こんにちは」 七条のパソコンデスクの脇に寄る啓太の声が、少しだけ申し訳なさそうな響きを含むのは仕方がないかもしれない。
「今日も暑いようですね」 相変わらずの笑顔で、声を掛ける。 「そうですね。でも、ここはまだいいですよ。クーラーがよく効いてるから」 何となく安心して、荷物を床に置きながら啓太は応えた。
夏休み中に限り、校舎内でも一部の部屋には空調が働く。この会計室も、その中の1つだ。28度という環境に優しい温度設定で、別にガンガンに冷えている訳ではない。が、それでも屋外の炎天下に比べたら天国のようなものだ。 「前の学校は、クーラーなんてなかったもんなぁ ‥‥‥」 というより、別に自分のいた高校を持ち出さなくても、普通の高校にはそんな贅沢な設備なんて多分そんなにはないだろうと啓太は思う。七条も頷いた。 「この学園は校舎も寮も、ある程度管理棟で室温が調整されていますから」 これも理事長のお蔭ですね、と ―――― 意味ありげな笑みを浮かべつつ、パソコンからCDを取り出しながら七条は言う。
「外は今、すっごく暑かったんですよ」 バス停から直接この会計室まで来たのだが、意外と距離もあって歩くだけでけっこう汗をかいた。今は、ここに来て数分で汗は引っ込んだけれど。 「そうなんですか?」 そんな啓太の言葉に、まるでそれを知らないかのように問うのは七条。啓太はちょっと驚いた。 「ええ。‥‥‥ って、暑くありませんでした?」 訝しげに問うと、七条はニコリと頷いた。 「はい、ずっとここに泊まり込んでましたから」 「えっ、そんなに忙しかったんですか!?」 それなら無理を言ってでも残ればよかった、と慌てる啓太に、七条は一言。
「まさか。 ‥‥‥‥‥‥ 冗談ですよ。すみません、伊藤くん」
悪びれる様子もなくさらっと言ってのける辺りは、彼の十八番(おはこ)。 「‥‥‥‥‥‥ 七条さん 〜 ‥‥‥‥‥‥」 彼の為人(ひととなり)を知って少しは慣れたけれど、それでも啓太は苦笑を禁じえなかった。
「でも、外を暑くないと思ったのは本当ですよ」 クスクスと小さく笑って、七条は弁解のように言う。 「日はよく照っていましたが、それほど暑いとは思いませんでしたし」
文字通り涼しい顔を、七条はしていた。先刻実際に暑さを体験してきた啓太だが、彼の発言にはいつも妙な説得力がある。 フランス人の父親を持つという彼の肌の色は、とても白い。所謂“もやしっ子”だとか、単に日焼けしていないという意味ではないその白さを見ていると、自分たちが黄色人種といわれる理由がよく分かる気がする。
なのに、あの気温を暑く感じないなんて。
「もしかして、朝早く来た ‥‥‥ とか」 早朝、日が昇って間もないラジオ体操の時間帯ならそんなに暑くはないだろう、と尋ねてみたが、七条はあっさりと否定した。 「いいえ、ここに来たのは10時過ぎ頃でした」 10時といえば、既に日は昇って空気は充分に暖められているから今と大差ないだろう。
「七条さんは、暑いのは苦手じゃないんですか?」 そのまま問うてみると、七条は少し考える素振りをして。 「どうでしょうね、普通だと思いますが」 何となく腑に落ちないものがあるが、そんなものなのかな、と啓太が小さく小首を傾げていると。
七条はほんの少し苦く微笑んで、呟くように「ただ ‥‥‥」と続けて一言。
「僕はどちらかというと、寒い方が苦手なんです」
それから少しの雑談の後。 七条は隣の机の書類を手にしてそれを一瞥し、啓太に差し出した。 「それでは伊藤くん。来て早々すみませんが、少し手伝ってくれますか」 打ち込み作業するから書類をめくってほしいのだと、言われなくても分かる。啓太もそのつもりで来たのだから、拒否する理由なんて何処にもない。 「はいっ」 むしろこの上なく幸せそうな笑顔で元気に返事をし、作業に取りかかった ―――― のだけれど。
なんとなくおかしい、ということ気付いたのは、それから1時間程度経った頃だった。
打ち込み自体は、つい先刻終わった。 ちらりと、横目でディスプレイを見てみる。未だにそういうプログラムの内容は全く理解できない啓太だが、あれだけ一緒にいれば、彼が何をしているところなのかくらいは、傍から見ただけでも分かるようになった。 (もう少し、だな) 終わったら2人でどこか行こうか誘ってみようかな、とか。それなら甘味を食べにいくのもいいな、とか。
カキ氷のことを、ちょっと頭に思い描いて。
(いや、いいか。こんな寒いのにわざわざ冷たいものなんて ‥‥‥)
そんな発想をして。 ―――― 夏、暑いのに。 ありえない。『寒いから』カキ氷は食べたくない、なんて。
けれど、実際に今は寒いのだ。 今着ているのは半袖のシャツだから、冷たい空気が直接肌に触れて余計に寒い。じわりじわりとゆっくり室温が低下していたのだろう、今まで全然気付かなかった。 一番最初に心配したのはもちろん、傍らにいる恋人のこと。
しかし彼は、別にそんなことなど気にならない様子でカタカタと軽やかにキーボードを叩き続けている。
校舎内の室内温度設定の細かい部分はほぼ全て管理棟で行われており、各部屋には大まかな操作できるスイッチがあるだけだ。啓太は書類をしまいに行くついでに、壁にあるその空調のスイッチを『切』に切り替えた。
「寒くないですか、七条さん?」 「そうですか?」 尋ねてみても、けんもほろろ。大してそうは感じない、といった反応。 「僕は大丈夫ですよ」 ありがとう、七条は言ってニコリ。表情からも、別段無理をしている様子は見えない。
(‥‥‥ 寒いの苦手って、先刻言ってなかったっけ?) それは何だか、矛盾しているような気がする。
そうこうしているうちに、七条の作業が全て終わったようだ。最後のエンターキーを叩くと、ハードディスクが保存のため小さく操作音を立てた。 同じく啓太も、書類の整理を終えて思案する。 紅茶を淹れるにお湯を沸かせれば、少しは空気が暖かくなるだろう、とか。
その時、不意に日の当たる窓際が視界に入った。 淡い色した薄手のカーテンは遮光の役割を半分しか果たしておらず、明るい太陽の光がうっすらと透けていた。
―――― けれど。 「伊藤くん」
声とともに両肩を掴まれ後ろに体ごと引き寄せられて、カーテンには触れることすらできなかった。 「わっ」 そのまま勢いで後頭部をぽすんとぶつけたのは、七条の胸元。 「大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫です」 そうなったのは誰のせいでもない、七条のせいなのだけれど。当の本人は申し訳なさそうな顔をするでもなく、そのまま両の腕の中に啓太を抱きこんだ。 ぎゅうぅ、と。 素肌はお互いちょっと乾いて冷たかったけれど、伝わり合う体温に次第にそれも和らいでいく。 「し、七条さん!?」 その力は強くなれど言葉少なな彼に、啓太は声を掛けた。
「こうしていれば寒くないでしょう、伊藤くん?」 (確かに ‥‥‥) 人肌というものは熱くもなく冷たくもなく、一番安心できる温度をずっと保つ。
この夏、真昼間。人の肌の温もりをこんなに心地よく感じるなんて、人生で初めてかも知れない。
(カーテン、開けないでよかった ‥‥‥) もちろんそれも、七条の思惑通りなのだけれど。
とはいえ、ここまでぴたりと触れあっていると、緊張の方が先に立ってしまう。 後に残るのは鼓動、ドキドキとだんだん速くなる心拍音。それに伴い乾いた肌は汗ばんできて、頬もなんだか火照ってきて。
「ね、伊藤くん」 「‥‥‥ は、はいっ」 もう一度名前を耳元で囁かれて、やっと自分が返答をしていないことに気付いた。
思考回路は、ショート寸前。
と、そのとき。 (冷た ‥‥‥ッ) 何か冷たいものが、啓太の手に触れた。 視線を落とすと、それは七条の掌で
半ば条件反射で、温めなきゃと思った。 自分の掌で、その指先を包む。けれどすぐに、自分の手もすぐに冷えてしまって。その指先を今度は自分の頬の辺りに持っていく。今、そこが一番熱かったから。 案の定。温まったのを通り過ぎて熱の持った自分の肌とちょうど正反対で、それもまた心地よかった。
「やっぱり寒かったんじゃないですか、七条さん」 自分と同じだったのだと思うと、何となくホッとして啓太は苦く笑った。 七条は何かを考えるように少し間を置いて、「そうですよ」と呟いた。
「君がいない間、ずっとね」
応えを、耳元で七条は啓太の耳元に囁いた。どこか切なげな声で。 「あ ‥‥‥」 小さな罪悪感が、生まれる。 そういえば。このお盆休み2日の間、自分は家族や古い友人と会ってきた。それは、それなりに充実した時間だった。しかし七条は、そうではない。 (七条さん、寂しかったんだ ‥‥‥) それを、すぐに分かってあげられなかった自分。ちょっとだけ自己嫌悪に陥る。
「だからそれを、君にも体感してもらいたかったんです」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥ はい?」
先程の寂しげな声音とはうってかわった、七条の思いもよらない言葉に啓太は一瞬きょとんとした。 「‥‥‥ 体、感?」 「はい」
後ろから抱かれたまま、視線だけ上を見ると。にこりと微笑んだ恋人、その背には幻の黒い羽。
「寒かったんですよ、この部屋と同じくらい ‥‥‥ いえ、それ以上に」
「もしかして、この部屋の空調って ‥‥‥」
今更、尋ねるのは愚問だと思う。それでも、訊いてしまった。 そんな、いつもと同じ調子で。啓太の予測を、七条は塞ぐ。ついでに、唇も。
「すみません、伊藤くん」
けれど何も言われなくても、彼が何をしたのかは分かった。 そして、同時に。 彼が、どれだけ寂しい思いをしていたのか ―――― 彼が、どれ程までに自分のことを待っていてくれたのか、も。
だから、何も言えない。何も、言わない。
「温かい、ですね」 そっと静かに、七条の声が下りてくる。 「そうです ‥‥‥ か?」 「えぇ、君は温かいです」
瞳を細めて、至福の表情。啓太からは見えないけれど、声で分かる。 彼から温もりをもらっているのと同様に自分も彼に温もりを与えられているのだと思うと、嬉しくなる。照れ笑いで、つい口許が緩んでしまう。
吐息も白くなりそうなこの部屋で、温め合う。 ―――― こんな夏も、いいかも知れない。
――― FIN ―――
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